桜ライン311支援

活動報告書

2012年11月16日(金)から18日()

 

           

 

大口町制50周年記念推進委員会

                鈴木義彦  大竹伸一 佐竹金政 長谷川実

                斉木 徹  社本良子 田中百百代 水野眞澄

 

 

1 参加に至った経緯

  本町の中央を貫流する五条川の両岸には、約1,900本の桜が植樹されています。この桜は、今から60年ほど前の昭和の市町村合併の際、純農村地帯であったが故その貧しさから、村の分裂の危機を迎えたことから村の中央を流れる五条川に桜を植えることにより村の人々の心をつなごうという思いで植樹がされました。その後の本町は、先人の方々のご労苦により、とても豊かなまちとなることができました。本年町制施行50年を迎えるに当たり五条川に桜を植えた当時の思いを多くの方に知ってもらいたいと検討をしている中、桜ライン311の皆さんの桜に託する想いに触れましたことが今回の活動のきっかけとなりまた。

 

2 活動状況

  @11月17日(土)、植樹当日の天気予報は雨にもかかわらず、何とか天気は持ちそうな状況で集合場所へ向かう。途中、昼食の買い出しによったコンビニでは、大型バスでボランティア活動に参加する方々とお会いするなど、多くの方が様々な活動を行うべく陸前高田市に入っていました。

  集合場所へ到着後は、はじめに活動のグループ分けが行われ、私たちのグループには、私たちの外に愛知県豊川市から1人で参加の原村さん、栃木県から参加の若い男性2名、そして一関市から参加で地元の地理に詳しい佐藤さんの12名がグループとなり、リーダーには50周年桜部会長の鈴木がなりました。

  グループ分けの後には、桜ライン副代表の佐藤さんの「私たちは悔しいんです。・・・・・」の挨拶、この挨拶は参加するすべての方の心に響く挨拶でした。

  その後、植樹のレクチャーを受けグループごとに植樹場所へ移動しました。

  私たちのグループの植樹場所は()神田ぶどう園、ぶどう園までの道中海岸沿いに出た途端、震災の爪痕が今なお残る状況を目の当たりにし、未だ復興とは程遠い現実を知らされました。

  ぶどう園のぶどう畑では、ぶどうの木に船のブイのようなものが引っ掛かっており、ここまで津波が押し寄せてきた状況をうかがい知ることができました。

  植樹した桜は9本。ぶどう畑と甘く考えて作業を始めたところ、植樹場所に穴を開けるべくスコップを入れた途端「カツン」と石に当たる音があり、これは大変だと思ったものの、12人が力を合わせれば何とかなるもので、順調に植樹が進み終了が見えかかったときに、携帯電話の着信があり、今回の桜ラインの活動を取材に来ていたテレビ岩手のディレクターから、是非大口町の皆さんの活動しているところを取材したいとの申し出があり、最後の1本の植樹を取材スタッフが到着するまで待つこととしました。

  取材スタッフ到着後、無事に最後の植樹を済ませ集合場所の陸前高田市竹駒コミュニティーセンターへと戻りました。(取材時の放送は、11月28日テレビ岩手5きげんテレビで放映されました。*別添DVD)

  集合場所の竹駒コミュニティーセンターに戻った後、それぞれアンケートを記入し、活動が終了となりました。参加メンバーがアンケートを記入している間、リーダーの鈴木は、活動終了の報告を桜ライン事務局の方にしていました。ふと、そちらを見ると、事務局の方が心から喜んでいる姿が、リーダー鈴木の「楽しかった。」の一言を喜んでくれたようです。今なお、津波の痕跡が残る被災地での活動であり、風光明媚な景観があったわけでもなければ、作業はスコップやつるはしを使った肉体労働であり、楽しかったと表現できるものではない活動に対し、この活動へ参加出来たことへの感謝と、わずかではあるかもしれないが、被災地の皆さんのお役に立ててのではとの思いを込めた「楽しかった」の一言を喜んでいただけたようです。

  今回、私たちが植樹をした桜は、津波の到達点に植えることにより後世の方に津波が襲った場合この桜の木より高く遠い所へ避難するための目印として使われます。語り継いでいくことにより2度と大きな被害が出ないことを願いますが、できることならそうした事態が2度と起こらず、この桜の木に咲く桜を眺め、たとえ一時でも被災地の方が笑顔になれる、そんな桜の木であって欲しいと心から思います。

 

  11月18日(日)、私たちは岩手県から宮城県南三陸町を目指しました。出発前の名古屋空港で、南三陸町防災センター跡についてのニュースを全員で読みました。そのニュースでは、被災した防災センターを撤去するかどうかで意見が分かれているとの内容でした。撤去を望む方の意見は、防災センターが観光施設のような状況になり、その前でピースサインをして記念撮影をする者がいるなど、犠牲となった方々の遺族には耐えられない状況であること。また、その建物見るたびに犠牲者を思い出すことから、遺族の子どもさんの中には、近くを通ることもできないとのことでした。一方、保存を望む方の意見は、この震災を風化させてはいけない。まだまだ復興とは程遠いこの地域が忘れ去られてしまうのではないかということでした。

  岩手県からカーナビをセットし、ナビどおりの道を進み防災センターへ近づいた時、道が急になくなりナビが示す道は海の中でした。こうした場合、手前に注意看板があるとの思い込みで、被災地は今なお復興には程遠いということをさらに思い知らされました。

  骨組のみとなってしまった防災センター、ここでは町の職員が住民に最後まで避難の放送を流し続け犠牲となっており、多くの花が今なお供えられていました。

  この、防災センターを保存するのか撤去するのかは、そこに暮らす皆さんが十分に話し合いを行い決めるべきものだと思います。ただこの防災センターには、最後の最後まで住民に避難の放送を流し犠牲となった尊い志をもった町の職員がいたということだけは忘れないでいたいと思いました。